知と福祉と倫理と政治

郵政民営化の議論をずっと眺めてきて、この問題は知による問題だとの思いをますます強くした。
政治の問題の前に、何を変化させればどういった結果に繋がるか、という現実の認識や予測のところで、賛成派、反対派、さらには各派の中でもそれぞれ差がある。

ところが。

障害者自立支援法に関する政府側の答弁を読んでいると、こちらはそうではないような気がしてきた。

これは、私はそう感じたというだけであって、その直感が現実を捉えているのかどうか検証されねばならないのだが、残念なことにもはや時間がない。だから、不誠実を承知で一個人の感覚にしか過ぎないものをここに晒す。もう少し早くから細かく追うべきだったと後悔で沈み込みそうになるが、11日までの残り、できることをやるしかない。

障害者自立支援法に対する野党の質疑は、意図はどうかわからないが表面上「政府や厚生省はあの法案でどれだけの弱者がどれだけ苦しむことになるのか分かっていない」という指摘が多い。

本当にそうなのか? と言うか、そこを分からせることが結果に繋がるのか?

政府や厚生省*1は、そんなことは分かった上で、いや、そもそもそんなことに関係なく通すつもりなんじゃないか?

「ご指摘の点は非常に重要であることは私共も認識しております。その上で、公平の観点から云々…財政の観点から云々…(それぐらいの弱者がそれぐらい苦しむのだとしても判断は変わりません。これぐらいのお金が削れるんなら、それぐらいの犠牲につり合うと私達は思ってるんです。)」

そう私には聞こえてくるのだが…。またもや私の妄想だろうか? いや、妄想にしか過ぎないのならその方がまだマシだ。事実を丁寧に議論していけばいいのだから。(これ以上審議しようという気は与党には無いようだが。)

しかし、もし本当にそうであったとしたら、これは現実の認識や予測の問題ではなく、価値判断の問題、倫理の問題だ。そして、そういった問題は突き詰めれば議論の対象にはならなくなる。論理ではなく感情の問題に行き着くからだ。どちらが正しいかではなく、どちらに共感するかという問題。もはやそれは、どちらが数の力で相手をねじ伏せるのかという戦い。

応益負担か応能負担かという選択がそもそもそういう話だと私は最初から思っていたのだが…。

決断しなきゃならない。妄想かどうかはどうでもいい。反対派の指摘が的を射ているのかどうか。時間がない。判断はつかなくとも決断しなきゃならない。

*1:経済財政諮問会議が重要な役割を果たしたらしい。http://bewaad.com/20050719.html#p01 参照。