倫理・宗教・法律・殺人

はてな 倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。説明できない・いけない理由はない・・

質問者の方も、無茶を言ってるのは分かってて質問してるんだよね、これって。既にかなり自分で考えたんだけど、どっか全く違うところから湧き出る発想が欲しいというか…。ってこれは私の妄想か。


『不可逆的で、いきかえせないから。』

これはちょっとハッとした。もちろん理由としては弱いけど。
これは単に私個人が「不可逆」というものにちょっと敏感というか…過敏かなと思うぐらいなので。


人を殺していない人が「なぜ人を殺してはいけないのだろう?」と考えるときと
人を殺した人が「なぜ人を殺してはいけないのだろう?」と考えるときでは
必ずその人の心理状況とその疑問の起因点にズレが生じるはずと考えます。
前者は純粋な思索であり、後者は欺瞞や弁解です。
思索を続けたいと思うのなら、人を殺すのは愚行でしかないと考えます。

これは面白い視点だなあ。私自身、思索を好むから、んー…と考えてしまうけど、これは思索を特に好んだりしない人にとっては理由に成りえないよね。
あと、後者は欺瞞や弁解です。ってのは、そうなりがち、そうなる可能性が高いという所までなら同意するけど、全てではないと思うし…そういう視点で見るなら、逆に経験したものにしかできない違った意味での純粋な思索はあるんじゃないかと思う。

ふと、思い出したのがこれ、

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

私は読んでないし、読む予定もないけど。

また、人間社会の倫理の根源は『自己生存欲求の相互承認』にありますから、『生命そのものに価値を見出さない人=自分は死んでもいいし、他者を殺してもいい』には、人を殺してはならない理由を理解する前提が欠けています。
『人を殺してはならない』という倫理規範を理解し、それを受け容れるためには、最低でも3つの前提条件のどれかを満たしていることが必要となります。

1.自分が生きていたい。
2.自分以外の誰かに生きていて貰いたい人がいる。
3.自分以外の他人の苦痛や不幸に共感できる。

これら3つの前提条件全てを否定する人にとって、『何故、人を殺してはいけないのか?』という倫理規範を受け容れる必然性や合理性がありません。
自分が死んでもよい、逮捕され死刑になろうが投獄されようが構わない、自分の家族や恋人、友人なんか死んでもよいかはじめから存在しない、この世界や社会そのものがなくなってしまえばよいと考えているような人には、あらゆる倫理(善悪)は通用しません。

これなんだよね。自分に価値を見出せない人、いや、感じられない人には、倫理や道徳は届かない。倫理や道徳を持たない相手に持っていないことを責めながら説いても逆効果だということ。持っていなくてもあなたには価値がある、それを感じさせて初めて出発点に立てる。


詭弁で構いません。

なんだよねー。


真理です。

爆笑


私たちが、『人を殺してはいけない』とする倫理観を自然に受け容れる基盤は、この親子関係や家族関係の中で獲得する『人間に対する基本的な愛情や信頼』にあると考えられます。

もう一度 cosmo_sophyさん。私は、これを教師に理解して欲しい。できれば、いざというときには自分が生徒の家族になる、ぐらいの心意気が欲しい。まあ、それはさすがに求めすぎだとは思うし…。そうあればいいな、という話。そうであるべき、などとは思わない。先日の「学ぶことの楽しさ」で述べたように、数の問題もあって、理想は理想、現実は現実で。まず第一に求められるべき親に私が求めないのもそれが理由だ。教師は自分でその職業を選び、そして選ばれてなるもの。親全てに求めるよりは教師全てに期待する方がまだしも現実味がある。…五十歩百歩な気はするが。


彼らと同じテーブルにつく条件であれば簡単です。
彼らの故郷である中東地域から全ての外国軍隊を撤退させ、彼らの政治的主張であるナショナリズムに基づくアラブ人による国家統治を承認すること。
そして、先進国の生活水準を落としてでも、徹底的な経済援助を行い、アラブ共同体から貧困や被差別、不公正感の意識を排除することです。

貧困や被差別、不公正感の意識。これ、主観的なものだからなあ。前半は、個人的にはありだと思うが、後半はね…。で、実際にそうである可能性は低くない気がするんだよね。


幸福な状況にある人、愛する他者がいる人、社会環境に生きることを肯定する人は『人を殺してはいけない』という倫理をあっさりと受け容れることが出来ます。
反対に、圧倒的に不幸で不自由な状況にある人、愛する他者も愛してくれる他者も全くいない人、この社会や世界に生きていることが嫌で嫌でたまらない人は『人を殺してはいけない』という倫理を容易には承認し難くなります。

cosmo_sophyさん、これで〆。そして、それへの michiakiさんの comment、


模範解答のように美しいですね。(チャカしてるのではありません)
噛みしめて読みたいと思います。

ただ、美しいけれど、わたしのための回答ではない気がします。
わたしはあまり倫理を支持できないのです。

わは。

後は…最後の解答が綺麗に落ちてますね。
で、すごい数の trackbackだよ。はてな外からもいくつかあるし。私もひとつ加えることになるので、それで48。

さらに、
はてな 「なぜ人を殺してはいけないか」をとっても分かりやすく説明してください。ただしhttp://www.hatena.ne.jp/1124114353と同じ条件になります。(ちょっ・・

いやいや、あれと同じ条件でとっても分かりやすくって…そりゃ無茶だよ。でも、だからこそもっと面白い解答が来たりするかな? 興味はあるけど、今はもうおなかいっぱい。

そして、質問者 michiakiさんの diary。


そこで、わたしには理解できました。いまの世の中に最も求められているのは、(略

笑ってしまいました。ちょっと blackです。
これは直接行って読んで下さい。


なのでほんとは、「そんなの倫理抜きに説明できねっす」って言われても、「だから『ご遠慮ください』ってハナっから書いてるじゃん!」なのです。回答は義務じゃないですよ?

あ、解答読んでてこれは思いましたねー。質問者の意図が読めてないんだろうな、と。あと、語りたいんでしょうね。質問者の意図など関係なく。と言うか語らずにはいられない。ま、私もそうであるわけですが。

それから、こちらも良かった。


 既に野球ではないなにかを、野球として説明することは可能なのでしょうか?そんなことをする暇があったら、身近にいる人やネット上で知り合った誰かが「自分は必要とされていない」「自分は死んでもいい存在だ」「殺したいほど憎い奴がいる」と思わないように、死なないために、人を殺させないために、やさしい言葉を伝えたりすることの方が大切なのではないでしょうか?

そのとおりだと思います。cosmo_sophyさんがおっしゃってる内容の実践の薦め、ですね。しかしまあ、知的遊戯としてそんなことに付き合うってのもいいんじゃないかな、とは思います。大切かどうかって人によって違いますからね。「殺してはいけない」という感情を持っているかどうかと同じで。私のこういう「情より知を優先」っぽいところは自分でもどうかと思いますが。少しモヒカン族と通じる部分でもある気がします。

あと、


だってかっこ悪いでしょう、そんなのは。

これは言わない方がいいかと思います。「かっこ悪くていいよ。おれなんか」と開きなおる人達もいて逆効果になる危険が。

お、麻草さんも永山則夫が頭に浮かんだとおっしゃってますね。

最後に質問者の michiakiさんの commentが。


「人間とは何か?」を一から学んでる最中です。一から間違ってる最中?